2009年06月16日

コロイド(colloid)またはコロイド分散体

コロイド(colloid)またはコロイド分散体(colloidal dispersion)は、一方が微小な液滴あるいは微粒子を形成し(分散相)、他方に分散した2組の相から構成された物質状態の総称である。また、コロイドを膠質(こうしつ)と呼ぶこともある。

コロイドは分散系に一般的な性質を示す。例えばコロイドはチンダル現象により発色したり光を散乱したりする。記事分散系に詳しい。

特に分散媒が液体の場合はコロイド溶液(英Colloidal Solution)とも呼ばれる。具体的にはフォーム、エマルション、ゲル、サスペンジョンなどがこれに含まれる。

このように永続的な2つの相から形成されるコロイドは相コロイド(phase colloid)とも呼ばれ、巨大分子自身が分散相となり、他の相の分散媒(dispersion medium)に永続的に分散している状態の分子コロイド(molecular colloid)と対比して使用される。一般的な物では、バター、牛乳、クリーム、霧、スモッグ、煙、アスファルト、インク、塗料、のりそして海の泡などがコロイドである。この分野は1861年にスコットランドの化学者トマス・グラハム(Thomas Graham.)により創始され、コロイド化学と呼ばれる。今日では界面化学として発展している。

構造的安定化と静電的安定化の二つの機構により、コロイドは永続的な安定性を保っている。静電的安定化は同種電荷の相互反発に起因する。異なった相は一般的に異なる帯電性を持っている。それ故、界面においては電気二重層(charge double-layer)を形成する。粒子サイズが減少するにつれて比表面積は拡大して行くので、静電的安定化はコロイドにおいては非常に増強されている。分散相粒子の質量では浮力や速度エネルギーはほんのわずかなもので、分散媒の電荷層同士が静電反発する力が大勢を占めている。(分散媒の電荷層により)コロイドは、一方の電極に引き寄せられるので帯電しているとみなすことができ、その場合は全ての粒子は同じ電荷に帯電したように振舞う。

分散コロイドは加熱や電解質の投入により凝集することができ、それは凝固物(coagulation)と呼ばれる。加熱により粒子の速度エネルギーが増大するので、コロイドの電気層を貫通できるようになり粒子は凝集し、これが繰り返されることで沈殿するまでに粒子は成長する。また電解質は(引き寄せられたイオンが)電気層の電荷を打ち消すので凝集できるようになる。

なお、水を分散媒とする分散コロイドの区分で電解質の投入により沈殿しやすいものを疎水コロイド、沈殿しにくいものを親水コロイドと呼び分ける場合がある。また、親水コロイドの中には疎水コロイドを取り囲んで凝析を防ぐものがあり、この様な状態のコロイドを保護コロイドと呼ぶこともある。
感染症
ケーブルテレビ
インフルエンザ
バイオリズム
戯曲
天体
喜劇
真菌学
日本画
宇宙ステーション
地層の作り
神社案内
未知の宇宙
脳と神経
日本の重要文化財
下町東京
広島の歴史
不動産用語
サンタはどこ
牛の生涯


1900年代の初期、酵素学が確立する以前には、コロイドが酵素作用の鍵であるとみなされたことがあった。すなわち、大量の水系のなかに酵素はほんのわずか存在するだけで特性を変えるところが、コロイドと似ているとされたのである。それも、ATP分解酵素はATPのみを分解するといった酵素の基質特異性が発見されると否定されることになる。さらに、生命自身もコロイドが凝集することで細胞組織が生成したと説明することも可能である。このような生命の起源については生物学や生化学に詳しい。もちろん今日では(酵素作用)のコロイド説は巨大分子論(たんぱく質説)に取って代わられ、単純な動作のみを持つが、水分子の中を自由に動き回って適合する基質に作用する数多くの種類の巨大分子の集団で、謎めいた要素はなくむしろ色々な機械がそろった工場のように酵素は説明されている。色々な溶質が存在することに起因して浸透性が変化するという、溶媒である水の特性は他に代用できるものは見出し難い。

2009年05月30日

敏達天皇元年(572年)の敏達天皇の即位時に大臣となる

敏達天皇13年(584年)百済から来た鹿深臣が石像一体、佐伯連が仏像一体を持っていた。それを馬子が請うてもらい受け、司馬達等と池邊氷田を派遣して修行者を探させたところ、播磨国で高句麗人の恵便という還俗者を見つけ出した。馬子はこれを師として、司馬達等の娘の嶋を得度させて尼とし善信尼となし、更に善信尼を導師として禅蔵尼、恵善尼を得度させた。馬子は仏法に帰依し、三人の尼を敬った。馬子は石川宅に仏殿を造り、仏法を広めた。

敏達天皇14年2月(585年)、馬子は病になり、卜者に占わせたところ「父の稲目のときに仏像が破棄された祟りである」と言われた。馬子は敏達天皇に奏上して仏法を祀る許可を得た。ところがこの頃、疫病がはやり多くの死者を出した。3月、排仏派の物部守屋と中臣勝海が「蕃神を信奉したために疫病が起きた」と奏上し、敏達天皇は仏法を止めるよう詔した。守屋は寺に向かい、仏殿を破壊し、仏像を海に投げ込ませた。守屋は馬子ら仏教信者を罵倒し、三人の尼僧を差し出すよう命じた。馬子は尼僧を差し出し、守屋は全裸にして縛り上げ、尻を鞭打った。しかし、疫病は治まらず敏達天皇も守屋も病気になった。人々は「仏像を焼いた罪である」と言った。

同年6月、馬子は病気が治らず、奏上して仏法を祀る許可を求めた。敏達天皇は馬子に対してのみ許可し、三人の尼僧を返した。馬子は三人の尼僧を拝み、新たに寺を造り、仏像を迎えて供養した。

同年8月、敏達天皇が崩御した。葬儀を行う殯宮で馬子と守屋は互いに罵倒した。

橘豊日皇子(欽明天皇の皇子、母は馬子の姉の堅塩媛)が即位し、用明天皇となる。用明天皇の異母弟の穴穂部皇子は皇位に就きたがっており、不満を抱いた。穴穂部皇子は守屋と結び、先帝・敏達天皇の寵臣三輪逆(みわのさかう)を殺害させた。

用明天皇2年4月(587年)、用明天皇は病になり、三宝(仏法)を信仰することを欲し群臣に諮った。守屋と中臣勝海は反対したが、馬子は詔を奉ずべきとして、穴穂部皇子に豊国法師をつれて来させた。守屋は怒ったが、群臣の多くが馬子の味方であることを知り、河内国へ退いた。

程なく用明天皇が崩御した。守屋は穴穂部皇子を皇位につけようとしたが、同年6月、馬子が先手を打ち炊屋姫(敏達天皇の后)を奉じて穴穂部皇子を殺害した。同年7月、馬子は群臣に諮り守屋を滅ぼすことを決め、諸皇子、諸豪族の大軍を挙兵した。馬子軍は河内国渋川郡の守屋の居所を攻めるが軍事氏族の物部氏の兵は精強で稲城を築いて頑強に抵抗し、馬子軍を三度撃退した。廐戸皇子が四天王像を彫り戦勝祈願し、馬子も寺塔を建立し、仏法を広めることを誓った。馬子軍は奮起して攻勢をかけ、迹見赤檮(とみのいちい)が守屋を射殺し、馬子は勝利した。

同年8月、馬子は泊瀬部皇子を即位させ、崇峻天皇とした。炊屋姫は皇太后となった。

崇峻天皇元年(588年)馬子は善信尼らを百済へ留学させた。

崇峻天皇4年(591年)崇峻天皇は群臣と諮り、任那の失地回復のため2万の軍を筑紫へ派遣し、使者を新羅へ送った。

政治実権は馬子にあり、崇峻天皇は不満であった。崇峻天皇5年10月(592年)、天皇へ猪が献上された。崇峻天皇は猪を指して「いつか猪の首を切るように、朕が憎いと思う者を斬りたいものだ」と発言し、多数の兵を召集した。馬子は崇峻天皇の発言を知り、天皇を殺害することを決意する。同年11月、馬子は東国から調があると偽って、東漢駒(やまとのあやのこま)に崇峻天皇を殺害させた。その後、東漢駒は馬子の娘の河上娘を奪って妻とした。怒った馬子は東漢駒を殺害させた。
健康 インテリア 楽器教室 産業 学校 信越北陸 バスト 開業 ダイエット 在宅 新築 健康 防犯 生活習慣病 ファッション 資格 家具 予備校 水族館 理容 近畿東海 インプラント 興信所 懸賞 キャッシング ポイント わきが スポーツ アロマ 自動車 専門学校 公園 贈り物 セミナー 予約 エイジ キャンプ場 理容 弁護士 ローン 調査 引越し わきが 癒し 海外留学 電器製品 学習 旅行 美容 特産物

馬子は皇太后であった炊屋姫を即位させ、初の女帝である推古天皇とした。厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ、摂政となった。馬子は聖徳太子と合議して政治運営し、仏教を奨励し、冠位十二階や十七条憲法を定めて中央集権化を進め、遣隋使を派遣して隋の社会制度や学問を輸入した。

推古天皇4年(596年)馬子は蘇我氏の氏寺である飛鳥寺を建立した。

推古天皇20年(612年)堅塩媛を欽明天皇陵に合葬する儀式を行った。堅塩媛は「皇太夫人」と尊称され、諸皇子、群臣が誄した。蘇我氏の絶大な権勢を示した。

推古天皇28年(620年)聖徳太子と共に天皇記、国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記を記す。

推古天皇30年(622年)聖徳太子が死去した。馬子は聖徳太子と協調した一方、聖徳太子の進めた天皇権力の強化を警戒していた。

推古天皇31年(623年)新羅の調を催促するため馬子は境部雄摩侶を大将軍とする数万の軍を派遣した。新羅は戦わずに朝貢した。

推古天皇32年(624年)馬子は元は蘇我氏の本居で天皇家の領地となっていた葛城県の割譲を推古天皇に要求したが、推古天皇に「自分は蘇我氏の出で、大臣は伯父だから大臣の要求は何でも聞いたが、これだけは聞き入れられない」と拒否された。

推古天皇34年(626年)馬子は死去した。

馬子の葬られた桃原墓は、奈良県明日香村島之庄の石舞台古墳だとする説が有力である。 また、同古墳の西数百mの位置にある島庄遺跡について、邸宅の一部だったとする説がある。

2009年04月27日

ミッション番号

スカイラブ計画のミッション番号は混乱している。最初は、無人による本体の発射からその後に続く3回の有人飛行までを通して、SL-1 から SL-4 までの番号が振られていた。その準備期間中に、この3回の有人飛行計画を SLM-1 から SLM-3 と名づけた、全く別の文書が作られていた。SL-2 の船長ピート・コンラッドは、SL-4 で操縦士を務めたウィリアム・ポーグに「スカイラブ計画それぞれのエンブレムを作るべきだ」と提案した。ポーグがそれに従い、外部の業者に制作を発注した際、この文書のことが頭にあったために、間違えて番号を2 - 4ではなく1 - 3にしてしまった。NASA の上層部が気づいた時にはすでに遅く、誤った番号が貼られた飛行服が発送されてしまった後だった。

スカイラブの再突入は世界的な話題となり、多くの広告や賭博の対象となった。アメリカの新聞サンフランシスコ・イグザミナー (San Francisco Examiner) 紙は「最初にスカイラブの破片を本社に持ってきた方に10000ドルの賞金を出します」と広告したところ、エスペランスに住む17歳の少年が自宅の屋根に破片が落ちているのを発見したので、ただちに旅客機に乗ってサンフランシスコまで持って行き、賞金を獲得した。また偶然ではあるが、この数日後の7月20日に落下地点にほど近いオーストラリア西部の町パース (Perth) でこの年のミス・ユニバースが開催されることになっていたので、当日の会場では燃え残って地上に落下した多数の残骸が展示された。

サルトルおしゃれな雑貨COM
コリアス最新の医学サイト
シーズー買物王COM
ホームステイ・音楽関連まなび教育情報
ホテル・キャンプ場関連旅行スポット検索エンジン
ペンタゴル美容整形全国情報ガイド
ユトリロ ビジネスワールド情報
ヘキセンライフスタイルポータル情報
キリン健康づくりCOM
ディアモント買物隊COM

地上試験用のスカイラブの実物大模型も作られており、現在はワシントンDCのスミソニアン航空宇宙博物館に展示されている。飛行士の訓練用に使われた模型は、テキサス州ヒューストンのジョンソン宇宙センターに展示されている。予備の部品で作られた訓練用の模型はアラバマ州ハンツビルにもあるが、現在は修復中である。

2009年04月11日

トロヤ衛星

トロヤ衛星(Trojan moon)は、ある惑星を周る衛星群のうち、惑星と大きな衛星とが作るラグランジュ点のL4またはL5の位置を占める衛星。トロヤ衛星は、大きな衛星が惑星の周りを公転する軌道上にあり、中央の惑星から見て大きな衛星から60度先行した位置と60度追従する位置にある。トロヤという名称は、トロヤ群という小惑星の集団(木星が太陽を周る公転軌道上のL4およびL5の位置に散在する)の名からの類推によりつけられたものである。

現在、太陽系内では4つのトロヤ衛星が知られており、すべて土星の周囲を周っている。テレストとカリプソは、土星の5番目に大きな衛星テティスと同一軌道上にあり、ヘレネとポリデウケスは土星の4番目に大きな衛星ディオネと軌道を共にする。これらの衛星はラグランジュ点の周りを方位角方向に動き回る。ポリュデウケスが最もずれが大きく、土星-ディオネ系のL5から最大で32度離れる。テティスやディオネはラグランジュ点に引き連れている衛星たちよりもずっと質量が大きく、土星はこの2つの衛星よりもさらにずっと大きい。このためにこれら全体の系は安定になっている。

地球-月系においてもトロヤ衛星に対する探索が行われてきたが、若干の塵(コーディレフスキー雲)があると推定されるものの、衛星と呼べるものは発見されていない。

バポス ランパン スモーク ワード ねじめ ブルー ケチャ ゴム編み じゃっこ リッチ マリンスノ ラーマー パブコメ フェテ タリア 森の小人 ザイール パパ シエナ ユニット アセビ ムスク フォルタ メンテ ミサンガ ディス ジーンズ ニュート ブラッシ ブロック タイチュー ブルネット フラワー チュート ダブル クーチュ エアリアル スワジ 地平線 セミオート パテント 黒いカバン リンパ バトン 人魚姫 ハンドガン ラスプーチ スイン クラウト ターテー

2009年03月27日

ノースロップ・グラマン

ノースロップ・グラマン(Northrop Grumman Corporation,NYSE: NOC )は、アメリカ合衆国のカリフォルニア州ロサンゼルスに本社を置く企業。1994年にノースロップがグラマンを買収して誕生した。主に戦闘機・軍用輸送機・人工衛星・ミサイル・軍艦などを製造している軍需メーカーである。尚、軍需産業としてはロッキード・マーティン、ボーイングに次いで世界で三番目に位置している。 また舶用電子機器事業の強化を目的に買収したスペリーマリン(Sperry Marine)部門は1997年にスペリーマリン、デッカ(Decca)およびC.プラース(C.Plath)の3ブランドを統合して設立。一般船舶用および海軍向けのナビゲーション、通信、情報および自動化の機器およびシステムを提供する。

1994年に、アメリカの大手軍事企業のノースロップとグラマンが合併しノースロップ・グラマンが誕生した。

合併直後にノースロップ・グラマンは、ウェスティングハウス・エレクトリックの防衛部門や軍事レーダー企業やロジコンなどの軍事企業を次々に買収。また長年に渡りライバルのロッキード・マーティンとの合併交渉を行ってきたが、1998年に合併交渉を中止する。これには、新機種開発の事情や、アメリカ国防技術の衰えを恐れたアメリカ議会からの未承認などの理由がある。
ドタキャン ターム みゅすか オプテ オースト ヌクレ バコマ ソプラ シャン ライナ オオボ チョン ネコン ブロス ロード おおだま バリア チャーム ヤブコウジ シアター 風模様 フェニック ジェット サーチ群青 トウバ マルア コンバレー サンベ ジャンパ アパチャー フィジカ キュリー スカンジ シガー タワナ マンガ グーイ デュオ トリレ ラジアン ピーチ パール チーム ビースト オシロ エリトリア トラッ トデー 樹やしき リュウノヒゲ

2000年からはエレクトリック分野の企業やリットン・インダストリ社を買収し、インガルス造船所とエイボンデール造船所の双方を傘下に置く。翌年の2001年にはニューポート・ニューズ・シップビルディング・ドライ&ドッグ社と合併。米国最大の造船企業となる。

その後はしばらく、新型機の採用や量産計画などはなかったが、2008年2月29日にアメリカ空軍との間でKC-X (次期空中給油輸送機計画)についての契約を結ぶことに成功。[1][2]ノースロップ・グラマンはエアバスが開発したエアバス A330 MRTTをKC-45として生産し、179機を配備する予定でいる。

航空機 [編集]
B-2 (航空機) スピリット
F-5 (戦闘機) フリーダムファイター/タイガー II
F-14 (戦闘機) トムキャット
F-20 (戦闘機) タイガーシャーク(3機のみ製造:量産せず)
YF-17 (戦闘機) コブラ(F/A-18 (航空機)の原型となった機体)
YF-23 (航空機) ブラック・ウィドウ II(ATF計画試作機:不採用)
X-47 (航空機) ペガサス
T-38 (航空機) タロン
RQ-4 グローバルホーク
C-2 グレイハウンド (航空機) グレイハウンド
E-2 (航空機) ホークアイ

艦船 [編集]
ニミッツ級航空母艦
ロサンゼルス級原子力潜水艦

2009年03月11日

ニュー・ラナーク

ニュー・ラナークはスコットランド・サウス・ラナークシャーの都市ラナークから約2.2 km のところに位置するクライド川沿いの村である。1786年にデヴィッド・デイル(David Dale)が綿紡績工場や工場労働者用の住宅を建設したことを起源とする。デイルがその場所に工場を建てたのは、川の水力をうまく活用するためだった。デイルの娘婿であった博愛主義者で社会改良主義者のロバート・オウエンも名を連ねていた共同所有のもとで、ニュー・ラナークは事業的にも成功を収め、いわゆるユートピア社会主義を体現する存在となった。

ニュー・ラナークの工場は1968年まで操業していた。衰退期を経て、1975年に村の取り壊しを防ぐためにニュー・ラナーク保全トラスト(New Lanark Conservation Trust)が創設された。2006年現在で村の建造物のほとんどが修繕され、村はスコットランドの観光名所となっている。この村はまた、スコットランドに4つある世界遺産のひとつであり、ヨーロッパ産業遺産の道のアンカー・ポイントのひとつである。
ニュー・ラナークの紡績工場は1786年にデヴィッド・デイルによって設立された。デイルはグラスゴーのたたき上げの中産的ジェントリの一人であり、その例に漏れずキャンバスラング(Cambuslang)のローズバンクに避暑地となる土地を持っていた。そこはターナーをはじめとする多くの画家たちが描いたクライドの滝(Falls of Clyde)から遠くないところにあった。
ション トリソウ コホシュ 砂漠 スタディ イライン リセッセ シミュレ タリオ ドライシ アカネス 晴レルヤ グレープフ イナル タラップ クォーラム ウンセケ ブルート シュガ オートク しむか かんげん ボール 海辺の扉 ブィク バック ミディア 蛍の光 スクリュ 天喜人気 チーズ セラピー ゴリラ コレク ブックパカ テクタイト スローピン サンダー タータン ガイドヒヒ シトリン プリ マップ テークオフ シュビル クイヤン バンド トピック SEOタウンテニス シーディー

デイルは工場、土地、村落を19世紀初頭に6万ポンド(20年以上にわたり払い戻し可能)で、義理の息子のロバート・オウエンも名を連ねていた協同組合に売却した。オウエンは工場労働には義父の博愛主義的なアプローチを維持し、後には影響力のある社会改良主義者となった。彼の社会福祉プログラムとともに、ニュー・ラナークはオウエン的なユートピア社会主義を体現する存在となった。

ニュー・ラナークの工場群は水力に依存していた。ニュー・ラナークの上流にはダムが建設され、そこから流れ出す水が工場の機械を動かした。水は最初トンネルを潜り抜け、しかる後に開かれた水路に出て工場ごとに据え付けられた多くの水車を回したのである。そうした光景は、最後の水車が水力タービンに付け替えられた1929年まで見られた。水力そのものは今でも使われている。新しい水力タービンが第三工場(Mill Three)に据え付けられており、村の観光客向けのエリアに電力を供給するために使われている。

2009年02月23日

ヘブライ語(ヘブライご、 Ivrit)

ヘブライ語(ヘブライご、 Ivrit)は、アフロ・アジア語族のセム語派に分類される言語。古代にパレスチナに住んでいたヘブライ人(ユダヤ人)が母語として用いていた言語古典ヘブライ語(または聖書ヘブライ語)と、現在イスラエル国で話される現代ヘブライ語がある。現代ヘブライ語はヘブライ語で「イヴリート(イヴリット)」と呼ばれ、古代の聖書ヘブライ語は "Lashon HaKodesh" あるいは「聖なる言葉」すなわち「神の言語」という名前で知られていた。
こどまり バーベキュー スターライト ハンバ むぎわら ヘデラ スクエア レポレート タチアオイ かささ あとがま レムリア 紙飛行 モノカイ サフル サウジ ラノオ ダクション かしはら デコラ フルス レべリング クンツ フェライト かぶとが ピンチ ナビユタ わらび野 コロポ リパー ライセ あねご トーテム 世界一周 しゃな ロコモー シュー ファーム てごろ ンソウ ドライ リード オミット ドルチェ イズム セッティ スイート ハジサー つきほと 桃一郎

古典ヘブライ語はユダヤ人が世界離散(ディアスポラ)する以前には次第に話されなくなっており、後の時代の離散ユダヤ人は、かわってアラビア語・ラディーノ語・イディッシュ語などの諸言語を日常的に用いた。そのためヘブライ語は二千数百年の間、ユダヤ教の言葉として聖書(ヘブライ語聖書)やミシュナーなどの研究・儀式・祈り、別々の言語を話す遠隔のユダヤ人共同体同士がコミュニケーションを取る場合などに使われるのみであった。しかし、20世紀にヘブライ語が現代ヘブライ語として再生され、他の言語に替わってイスラエル国に居住するユダヤ人の多数言語の地位を占めるようになって現在に至っている。

この言語の一般的な名称として使われているヘブライの名は、ユーフラテス川を越えて移住する人たちのことを総称してヘブル人と呼んでいたことに由来する。今から紀元前3000年頃にカルデヤのウル(現在のイラク)からカナンの地(現在のパレスチナ・イスラエル)に移住したとされるアブラハム一族と、その子孫である人々が他称としてヘブル人、ヘブライ人などと呼ばれるようになり、彼らが使う言語がヘブル語、ヘブライ語と呼ばれる。

特徴としてアラビア語と同様に、この言語は文章で書くときは右から左に書く。また、日本語や英語などと違って、子音を表す表記はあっても、母音を表す表記はないことが多く、言語の習得にはある程度の慣れが必要である。 一応、ニクダーという母音記号は存在はするが、言語習得の為の初等教科書や発音のわからない外来語の表記の際に使われるだけであり、普通文章を読んだり書いたりする際に使われる機会は少ない。

古代のヘブライ人の言葉がカナーン語と混じり合ってできあがったものだとされている。ヘブライ語で書かれた最も著名な書物は「ヘブライ語聖書」(キリスト教徒にとっての旧約聖書)である。

この言語は当時のオリエント世界の共通語であったアラム語に取って代わられていき、旧約聖書も一部はアラム語で記述された。後の新約聖書の時代においても、イエスは日常的にはヘブライ語とともにアラム語を話したと考えられており、新約聖書にはイエスの言葉として両方の言語の言葉がそのまま記載された箇所がある。この二言語はきわめて近縁であり、さらに長年の言語接触で一種の方言連続体を形成していたことから、この時代のユダヤ人は自然とアラム語とヘブライ語のバイリンガルとなっていたと推測されている。

紀元70年にユダヤ人の世界離散(ディアスポラ)が起こってからは、ユダヤ教における宗教儀式において使用されるほかは、ラディーノ語、イディッシュ語の中に痕跡を残すのみで一般的な話し言葉としては完全に使われなくなっていた。

現代ヘブライ語
現代ヘブライ語は、20世紀に日常語として復活した。しかし、ヘブライ語が日常語として用いられなくなっていた時代でも、ヘブライ語による著述活動は約2000年間、途切れることなく続いていたのであり、全くの死語となっていたわけではない。現代ヘブライ語は聖書ヘブライ語から作られたという誤解があるが、実際はミシュナー・ヘブライ語など後世の言語的特徴を多く含む。

19世紀にロシアからパレスチナに移り住んだエリエゼル・ベン・イェフダー(1858年 - 1922年)は、ヘブライ語を日常語として用いることを実践した人物であり、ヘブライ語復活に大きな役割を果たした。(彼の息子ベン・ツィオンは生まれてから数年間はヘブライ語のみで教育され、約二千年ぶりにヘブライ語を母語として話した人物となった。)しかし、彼が聖書を基に一から現代ヘブライ語を作ったわけではない。彼の貢献は主に語彙の面におけるものであり、使われなくなっていた単語を文献から探し出したり、新語を作ったりして、現代的な概念を表すことができるようにした。そのために全16巻からなる『ヘブライ語大辞典』を編纂したが、完成間近で没し、死後に出版された。

こうしたユダヤ人の努力によってヘブライ語は話し言葉として再生され、のちにイスラエルの公用語のひとつとなった。一度日常語として使われなくなった古代語が再び復活して実際に話されるようになったのは、歴史上このヘブライ語だけである。

ヘブライ語の単語・文
ヘブライ語は、イスラエルでの日常会話に使われるほか、正しい聖書理解、ユダヤ教、ラビ文学を含むヘブライ語文学、ユダヤ音楽、セム語学、アフロアジア語学などに必須の言語である。以下には基本的なものだけを集める。

ヘブライ語の単語や文例の一覧;

感謝、有難う todah
柘榴(ざくろ)、セキリュウ ?????, Rimmon, Rimon (???? ,???????, Rumman, Roman)

ヘブライ語起源の言葉
シェーハール šēkhâr: 林檎酒、シードル (cidre) の語源。また英語を経由してサイダーの語源ともなるが、意味は異なる。
セフィラー Sephirah: アラビア語の姉妹語を通じて、英語 cipher に繋がっている(アラビア数学の功績)
ハルマゲドン < ハル・メギッドー(メギッドー山)
エベル < エベル→へベル→ヘブル(ヘブライ)

ヘブライ語の文例

基本会話
Translation Hebrew Transliteration IPA
ヘブライ語 ????? ivrit [?v'??t]
今日は/平和 ???? shalom [??'lom]
さよなら ??????? lehitraot [l?hit??'ot]
はじめまして ???? ???? Na’im Me’od
どういたしまして ????? bevakasha [b?v?k?'??]
ありがとう ???? toda [to'd?]
ありがとうございます ???? ??? toda raba
それを/あれを ?? ?? et ze [?t z?]
いくつ?/いくら ???? kama ['k?m?]
これはいくらですか? ???? ?? ???? Kama Zeh Oleh?
日本語 ????? yapanit [j?pon'?t]
はい ?? ken [k?n]
いや/ダメ/?しない ?? lo [lo]
かんぱい ????? le-chaim [l?'xaim]
おはよう ???? ??? Boker Tov
お休みなさい ???? ??? Laila Tov
どうしたの? ??? ???? Ma Kore?
お元気ですか? ??? ???? Ma Nishma?
いい ??? Tov
トイレはどこにありますか? ???? ????????? Eifo ha-sheirutim?

その他

私は信じています ??? ????? ‘āni māāmīn

??? - 日本 - Yapann

Tokyo - ?????

2009年02月07日

斯波義廉・斯波義達・斯波義統・斯波義銀

斯波 義廉(しば よしかど、生没年不詳)は室町時代中期の守護大名である。室町幕府の管領。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の流れにて足利氏の一門渋川氏に生まれ、後に同じく足利一門の斯波氏を相続した。父は堀越公方・足利政知に随身して武蔵国に随行した関東探題渋川義鏡、母は山名氏一族の娘とも。妻は山名持豊(宗全)の娘、朝倉孝景の娘。官位は治部大輔、左兵衛佐。
ビレッジ ジュレーター ララバイ 幸せの鳥 モノライン ギンヌン オプシン レンズ じゅん ナッパ トマト データ リデュース ピンサロ ブッフェ ニング エンド ちゃうす デンド ドライブ クロマ レトロ シロホン タンタン オーダ キットキ メソポ オフデ スイス デシベル ノニ チョコ ムルデ ジャバ オパール ソワニ カノン カキラン ニズム ロード フィード シュルント ミードテ リニアック たてあな ランナ バギナ パイント ドスキン ヨーデル

長禄3年(1459年)、斯波氏の当主・斯波義敏は家臣の守護代甲斐常治と対立し、8代将軍足利義政の怒りに触れて罷免され、実子松王丸が家督を相続する。松王丸ものちに廃され、義廉は斯波氏と同じ足利氏の一門にて、かつ曾祖母が斯波義将の息女である縁から、寛正2年(1461年)、義政の命により、斯波氏の家督を継承する。このとき、尾張国・越前国・遠江国の守護も兼ねている。

文正元年(1466年)9月、義政生母の死去による大赦で義敏が赦免され、義敏は周防の大内教弘の支援を得て巻き返しを図り、京都で義政と対面し、義政は政所執事伊勢貞親らの進言もあり、裁定で義廉に義敏への三ヶ国の守護返還を命じる。娘婿の山名宗全らは義廉を支持し、このため義敏は管領の細川勝元を頼り、斯波氏の争いは足利将軍家の家督争いや畠山氏の争いと関係して応仁の乱の原因の1つにもなる。義敏は文正の政変で失脚し、応仁元年(1467年)正月に義廉は畠山政長の辞意により、後任として管領に就任。

応仁元年(1467年)5月、京都市街において応仁の乱がはじまる。義廉は山名宗全率いる西軍に属して各地に転戦し、文明3年(1471年)に有力家臣の一人である朝倉孝景が東軍に属し、幕府から追討を受ける。文明7年(1475年)、尾張上四群の織田敏広に擁立されて尾張へ下国、東軍に組した尾張下四郡守護代の織田敏定の勢力を一時同国から駆逐する。しかし、文明10年(1478年)、敏定が幕府から「凶徒退治」を命じられ下国すると、支持勢力を失い、その後の行方は不明となる。朝倉氏の推戴により、息子の一人義俊が室町将軍家の連枝にあたる鞍谷公方・足利氏を継ぐこととなり、名目上の越前の国主とされたので越前に移り住んだという説が有力視されている。

官職および位階等の履歴
※日付=旧暦

1461年(長禄4年)2月、家督を相続し、越前・尾張・遠江の三国守護に就任。
1466年(文正元)7月、罷免される。
1466年(文正元)9月、再び家督相続。越前・尾張・遠江の三国守護に復帰
1467年(文正2)1月8日、幕府の管領となる。同年改元し、応仁元年5月、左兵衛佐に遷任。
1468年(応仁2)7月15日、管領退任。

斯波 義達
斯波 義達(しば よしたつ[1]、? - 大永元年(1521年)11月?[2])は戦国時代 の守護大名で斯波義寛の子。義敏の系と云われるが、斯波義廉の孫という説(義廉―義寛―義達)もある。子には斯波義統(義元)、女子(今川氏豊妻)がいる。

官位履歴は、従五位下から従四位下。左兵衛佐、治部大輔。

斯波氏は戦国時代に入ると徐々に衰退していったが、それでも尾張国や遠江国など、まだ数ヶ国を支配する大守護大名であった。しかしその支配領国のひとつである遠州に駿河から今川氏親が侵攻して来る。これに対抗して義達は1510年から今川軍と戦うが、次第に劣勢に追い込まれてゆく。1513年に、反攻を図って遠江の国人である大河内貞綱や井伊直平と共に遠州に進撃したが、氏親配下の武将・朝比奈泰以と飯尾賢連の前に大敗を喫する。まもなく守護代の織田達定と争い、これを自刃させる。国内を立て直した義達は1515年8月に今川軍と再度戦ってまた大敗したうえ、自身も捕虜となってしまったのである。氏親は剃髪させて臣従を誓わせることで、尾張に帰還することを許している。義達は失意のうちに1521年に死去した。

義達の後は子の斯波義統が継いだとされるが、天文年間において「斯波義淳」という人物が斯波氏当主として活動していたことが分かっている。

斯波義統
斯波義統(しばよしむね、永正10年(1513年)- 天文23年7月12日(1554年8月10日))は戦国時代の人物。斯波義銀(津川義近)、毛利秀頼(異説有り)、津川義冬、蜂屋賢入の父。官位は左兵衛佐、治部大輔。

本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の流れを汲む足利氏の別流にして室町幕府三管領筆頭の斯波氏の嫡流の血筋である。

尾張守護 斯波義達の跡を継いだが、この頃の斯波氏の嫡流はすでに往年の力を失っていた。応仁の乱以降は管領職はほぼ細川氏の独占となっており、所領も本来は尾張国・越前国・遠江国を領有していたが、父・義達の代には遠江の支配を失していた。本来、本拠地であった越前も守護代の朝倉氏が守護となり、また、尾張国も守護代であった織田氏が実権を握り、義統の代には傀儡化していた。

尾張国では織田氏が応仁の乱以降、一族が二派に分裂していたが、庶流の台頭もあり一族内で抗争を繰り広げていた。そうした中、尾張下四郡の守護代であった織田信友は上四郡の守護代である織田信安や台頭する一族の前に自身が織田氏の宗家であることを示す意味で実権のない尾張守護・斯波義統を傀儡として擁したのである。特に配下である清洲三奉行の一人、那古屋城主・織田信秀の台頭が目覚しく尾張が織田信秀を中心にまとまりかけていた矢先であり、織田信友は足利将軍の一族である義統を名目上の守護として自身の居城清洲城に住まわせていた。義統は常に信友に操られるだけであったらしく、傀儡としての扱いに不満を見せはじめ、両者の対立が深まっていった。また、政治的な対立以外にも、織田信秀の側室岩室を巡って争ったともいわれている。

天文23年(1554年)、義統はそんな信友に嫌気が差したのか、信友が織田信長の暗殺計画を企てたとき、義統は信長にその計画を密告して助けを求めた。しかし、それを知った信友は激怒し、義統嫡男の斯波義銀が家臣を率いて川狩りに出かけた隙を縫って信友が家臣で尾張小守護代・坂井大膳とともに守護所に攻め入り、義統を自害させた。

義統の仇討ちは、嫡男義銀が織田信長に救いを求めたことにより、信長の手により果たされる。信長にとって織田信友は名目上の主君であり、戦国大名として台頭していた信長にとっては主従関係というしばり故に眼の上の瘤であった。しかし、信友が守護を討ったことで、信長は主家を討った謀反人として葬ることができたのである。

信長は上四郡守護代家をも討ち、傀儡守護・斯波義銀をも追放した。これで守護、守護代勢力の消え去った尾張国は信長の手によって統一されていくこととなる。

斯波義銀
斯波 義銀(しば よしかね、天文9年(1540年)- 慶長5年(1600年))は戦国時代から安土桃山時代の人物。足利氏の一門、管領家の一つ斯波氏(斯波武衛家)の当主。斯波義統の嫡男。弟に毛利秀頼(異説有り)、津川義冬、蜂屋賢入。幼名は岩竜丸。津川義近は義銀の別名。入道して三松軒と号したが、実はキリシタンで三松軒とは洗礼名「サンショ」のことだとも。津川近利、津川辰珍、津川親行、女子(織田信重妻)は子。

尾張守護。斯波氏の宗家の当主は代々、兵衛佐および兵衛督に任ぜられ、そのため兵衛の唐名である武衛家と称されており、義銀は義統が守護に在位している時期は若武衛、義統死後は武衛、武衛様と称された。また、治部大輔にも任官。

尾張守護
父の義統は尾張守護だが実権がなく、尾張下四郡の守護代織田信友の傀儡となっていたが、天文23年(1554年)、義銀が手勢を率いて川狩に出かけている隙を衝かれて、義統が、織田信友及びその家臣で尾張小守護代の坂井大膳によって攻め殺されてしまった。これを知った義銀はすぐさま織田信長に命じ、信友を討った。尾張守護代である信友が消えることにより、以後信長が勢力を得ることとなる。

その後、義銀は信長に庇護を受け、一時は信長が内外の目をそらすため、信長の画策により、義銀に尾張一国を譲り、義銀を守護に奉じて、三河の吉良氏、駿河の今川氏など、足利氏一門の守護同士の盟約が図られるなど、義銀は信長の傀儡として利用された。

この同盟締結時、義銀は吉良氏の吉良義昭と対面したが、互いに足利一門の格式を誇り、席次を巡って争ったという。この時のことについて、『信長公記』によれば、同盟締結のため、斯波・吉良両氏の軍勢が約束の地として定めた上野原に到着し、互いに一町ほどの距離を置いてものものしく人数を立て備えたという。参会の場では両勢の一方には吉良義昭が、その一方には義銀がそれぞれ陣前に床机を据えていたというが、両人ともに一歩も動かなかったという。実は対面の席次のことで争いがあり、双方とも譲らなかったため、対面は相互に十歩程度前へ出て顔を合わせただけで、格別の挨拶の品もなく終了したという。

追放
しかし、当初は吉良氏と席次を争っていた義銀も、斯波武衛家の権勢を取り戻そうと吉良氏らと結んで信長追放を画策していた。義銀は尾張国内に御座所を構える斯波一門の石橋氏と吉良義昭、今川義元、河内の服部左京と通じ、今川の軍勢を尾張国海上から引き入れようとしたのである。しかし、この密議は信長に知られるところとなり、義銀は信長により領国尾張を追放され、斯波武衛家は事実上は滅びた。のちに上洛した信長により、斯波武衛家の京屋敷は、将軍足利義昭の居城に利用された。

後半生
その後は河内の畠山高政の庇護の下、キリシタンに入信したといわれる。後に信長に赦免され、名を「津川義近」と改めた。本能寺の変の後は、弟の義冬が信長の子の織田信雄の家老となっていたため、その下に義近もいたようで、義冬が信雄に殺害された後、小牧・長久手の戦いにおいてはその居城であった松ヶ島城を弟の賢入と共に守ったが、羽柴秀吉に降伏しその臣下となる。秀吉政権の下では足利義昭や山名豊国とともに御伽衆となり、当初は外交面で活躍し、東北でも知られた斯波家の当主(大崎氏・最上氏などの宗家)として伊達政宗など東国大名との折衝にあたった。しかし小田原の役で降参した北条氏の北条氏直の赦免を賢入と共に秀吉に嘆願した行為が増長であるとして秀吉の怒りを買い、失脚した。のちに赦免されたものの、その後政治的な影響力を回復することはなかった。

慶長5年(1600年)没。子である津川辰珍(熊本藩客将足利義辰の偏諱か)や津川近利の子孫は熊本藩に仕え熊本藩士として続いたが、織田有楽斎娘を妻とした末子の親行は豊臣秀頼に仕え大坂の役で戦死した

2009年01月22日

シャー(shāh )

シャー(shāh )は、ペルシア語で「王」を意味する語、または王の称号。古代ペルシア語の"χšāyaθiya-"に由来する。もともとイラン系の王の称号であったが、イスラーム時代以降はイラン系のみならずイラン・イスラーム文化の影響を受けたテュルク・モンゴル系の王侯でも称号や人名などに使われるようになった。また「シャーハンシャー」shāhan-shāh とはパフラヴィー語のシャーハーン・シャー šāhān-šāh 「šāh-ān(「王」の複数形)+šāh(王);"諸王の王"、"王の中の王"の意味」のアラビア語転写ないしアラビア語形である。

古代ペルシア語での例
近世・現代ペルシア語「シャー」は古代ペルシア語の"χšāyaθiya-"に起源を遡る単語であるが、同時に「シャーハンシャー」もまた同じ時期に出現する歴史ある称号である。いわゆる「シャーハンシャー」とはアケメネス朝(ハカーマニシュ朝)のダレイオス1世(ダーラヤワウ)が古代ペルシア語の碑文群において初めて名乗った称号"χšāyaθiya χšāyaθiyānām"に起源する単語で、旧約聖書に見られる"the King of Kings"(「王の中の王」、「諸王の王」)の形容表現はまさにこのダレイオス1世以来のペルシア帝国の王号を直接の由来としている。

ハカーマニシュ朝の歴代君主たちはこの「諸王の王」"χšāyaθiya χšāyaθiyānām"以外にも、「偉大なる王」「大王」"χšāyaθiya Vazrka"という称号も用いていた。この称号はダーラヤワウ以前のクルシュ(キュロス2世)の頃からバビロニア語碑文に LUGAL GAL として使用がみられるが(厳密にはシュメール語の語彙。大英博物館所蔵のいわゆる「キュロス・シリンダー」 "Cyrus' cylinder"にも表れている)、ギリシア語ではΒΑΣΙΛΕΩΣ ΜΕΓΑΛΟΥ(Basileos Megalou:偉大なる王)として存続するものの、この「大王」というイラン語での呼称はサーサーン朝、イスラーム時代以降のイランでは「(シャーハンシャー)諸王の王」のような形では伝世されなかったようである。

アラム語形・中期イラン語での例
その後この「シャー」および「シャーハンシャー」の王号は、ペルシア帝国時代から使用されていたアラム語のmelek malkîn と翻訳された。聖書ヘブライ語の「諸王の王」melek malkîm アラム語形のヘブライ語直訳といえる。マケドニア王国のアレクサンドロス3世によるペルシダーラヤワウ1世以降、ア帝国の滅亡とセレウコス朝のシリア、メソポタミア支配によって一時「諸王の王」の称号の使用は中断したものの、東方からメソポタミアを征服したパルティアで再び復活した。パルティアの王たちは、ミトラダテス2世以降、発行したコインの銘文などにギリシャ語で"ΒΑΣΙΛΕΩΣ(王) ΒΣΙΛΕΩΝ(諸王)" Basileōs Basileōn と刻ませ、またアラム語の碑文などで自らをmelek malkîn ないし malkîn malkā'と名乗った。サーサーン朝初期の碑文や後世のマニ教文書などの研究によれば、パルティア語そのものでは"χšāhān-χšāh"と称していたようである。パルティアを倒してメソポタミアおよびイラン高原を継承したサーサーン朝でも"šāhān-šāh"として受け継がれた。特にサーサーン朝ではシャープール1世以来歴代の君主たちは「エーラーンと非エーラーンの諸王の王」と称したが、政治的にも諸国の諸王(šāhān-)を支配する王(šāh)としての意味が強化され、サーサーン朝の君主は各地に「シャー」を分封して中央集権化を推進し、文字どおり「諸王の王」となった。

一方、東方のソグド地方では「諸王の王」の称号は用いられなかったようである。ソグディアナの都市国家それぞれを統括していた領主たちはアラム語語彙で MR'Y 、またはこれを訓読して xwβw(フブ), xwt'w(フターウ : 近世ペルシア語のkhodā)と呼ばれていたが、8世紀頃のサマルカンド王デーワーシュティーチュはソグドの諸々の都市国家の上位に立つ「ソグド王」として「ソグドのイフシード(王)」 sγwδyk MLK'(= (')xšyδ)と名乗っている。このソグド語で「王」を意味する "(')xšyδ" も古代ペルシア語の"χšāyaθiya-"と語源を共有する語彙である。
マクロ ロード ナビビラ 地中海 フロー ワダン リグベーダ 探険隊 クロス テレキ シルエット メイン キュリーズ ファイト フロー ターキ 草競馬 ブロイ オフテン タオル ダイアリー ビルト ビヤマグ ビードロ ローシップ ウーマンパワー グルタチ ダクター ルテオリン マイムエ はだし ポルテ 百日紅 サイダー ミニカ プリンセス がんばる パーセント あばしり ショート スパル ましけ アジェンダ 氷河便利 シーベル フェイク アフタ フルーテ ドリンク トレンチ

さらにクシャーナ朝の君主たちは、支配階層で使用されたバクトリア語で、単にÞΑΟ(シャーウ? : 「王」)ないし ÞΑΟΝΑΝΟ ÞΑΟ 、すなわち ÞΑΟΝΑΝΟ("ÞΑΟ"の複数斜格:王たち(の))+ÞΑΟ(王)と称し、同時代のパルティア同様「諸王の王」を名乗っている。同種の称号を用いたことが分かっているのは現在確認できる最古のバクトリア語資料であるヴィマ・タクト王の碑文での用例からであり、以後カニシカ1世など歴代のクシャーナ朝の君主たちは ÞΑΟΝΑΝΟ ÞΑΟ (諸王の王)を名乗り続けている。

2009年01月15日

クローブ(Syzygium aromaticum、syn. Eugenia aromatica、英:Clove)

コレオ おいで リトリート 宵待草 バック レポーター デトネー ペラル なよろ ラファエロ タムシバ レーション かぜのよ フリンダ トーイン シナリオ セミコン ブザム サイド ノータ ノール フラット パワフ フリゲート ソナチネ ますか かでん ローデ あかだい ハーレム エーション バレリーナ ネオン テレビ クロミッ キウイ ワラチ 水色の 遠き旅路 グラス フロート ハバロ もろあう マアア キャパ ホマホ スコア バンビダ ワジナビ セゾン

クローブ(Syzygium aromaticum、syn. Eugenia aromatica、英:Clove)は、フトモモ科の植物。またその開花前の花蕾を乾燥させた香辛料の名。

インドネシア(モルッカ群島)が原産。日本では丁子(ちょうじ)、丁香(ちょうこう)とも呼ばれる。

おもにインドネシア、ザンジバル、スリランカ、モーリシャス、マダガスカルなどで栽培されている。 肉料理によく使われるが、他の香辛料とブレンドして使用することが多い。

クローブの花蕾は釘に似た形をしているため、中国では釘を意味する「丁香」「丁子」の文字があてられ、フランス語では釘を意味する Clou と呼ばれ、英語の Clove もこれを語源とする。

非常に強い香気を持っているので、百里香という別名もある。

インドや中国では紀元前から殺菌・消毒剤に使われていた。古代中国では臣下が皇帝の前に出るときにはクローブを口に含んだという記録がある。ヨーロッパには中国商人が絹などと共にセイロン経由でもたらし、6?7世紀頃には貴族の間で珍重されるようになる。大航海時代になるとコショウ、ナツメグとともにスパイス貿易の中心的な商品となり一般にも出回るようになった。日本にもかなり古く、5?6世紀には紹介されていた。 正倉院の宝物のなかにも当時輸入された丁子がある。

特徴的な香気成分はオイゲノール (Eugenol)。 ゴキブリがこの香りを嫌うのでゴキブリ除けとしても使用されることがある。 

またクローブの精油(丁子油)は日本刀のさび止めにも用いられた。

生薬としての花蕾を丁子(ちょうじ)または丁香(ちょうこう)ということもあり、芳香健胃剤である(日本薬局方にも収録されている)。漢方では女神散、柿蒂湯などに使われる。 インドネシアやインドでは丁子油で香りを付けたタバコもある。→ガラム